牛肉を食べることを禁止したのが豊臣秀吉だということご存知ですか?
ヨーロッパから種子島に鉄砲が伝来し、宣教師が布教に訪れるなど「南蛮文化」が流入した安土桃山時代には、一日の食事回数がそれまでの朝夕の二食から三食になるという、食生活史上重要な変化が起こっています。
南蛮人との交易を契機にして、キリスト教に改宗する大名たちは九州から近畿にまで広まり、同時に「南蛮文化」も広まっていきました。
その影響で領地の庶民は、それまで堅く守られてきた仏教の「殺生戒」から解き放たれ、牛肉や豚肉が食用として受け入れられるようになります。
後に、秀吉は「伴天連追放令」でキリスト教を禁じ「牛馬をと畜して食用に供すること」も禁止しています。
江戸時代には、三代将軍家光によって「鎖国令」が発せられ、「島原の乱」を契機に肉食に関係の深かったキリスト教禁止され、牛馬のと畜禁止令は江戸幕府の定法になっています。
鎖国下の江戸時代、庶民が牛肉や豚肉を口にすることはなくなり、次第に獣肉食を忌む傾向が根強くなっていったようです。
社会では、「犬公方」といわれた五代将軍綱吉が、イヌをはじめとする動物を徹底的に保護する「生類憐れみの令」を出しますが、ちょうどその頃、近江の彦根藩では生牛と畜が黙認され、牛肉の味噌漬けや干し肉による「薬喰い」が考案されます。
近江の彦根藩では公然と牛のと殺が行われ、藩役人の指揮下で牛肉の味噌漬けや乾肉が生産されるようになります。
近江の名産品となった「養生肉」は、江戸中期以降、彦根藩主井伊家の「寒中お見舞い」の
貢物として将軍家や御三家、老中などに献上されています。
江戸時代、庶民が獣肉をまったく食べなかったわけではありませんが、牛肉が食べられるようになったのは明治になってから文明開化の時代になってからのことです。